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紙幣に描かれる偉人

最終更新日 2021年01月05日

展示期間 : 01月から02月

展示場所 : 本館児童展示


紙幣に描かれる偉人の展示ポスター
お正月に、お年玉をたくさんもらった人もいるかと思います。
今の紙幣のデザインは、福沢諭吉、樋口一葉、野口英世ですが、2024(令和6)年には新紙幣の登場が予定されていますね。新たに紙幣に描かれるのは、渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎の3名です。現在の紙幣の福沢諭吉と、新紙幣に描かれる津田梅子は、私達の住む北総の地とも関わりがあります。
今回の展示では、現在の紙幣と新紙幣のデザインに採用された偉人について、さらに、お金に関する本も集めました。

展示関連情報

現在の紙幣に描かれている偉人

福沢諭吉

福沢諭吉は、成田市と深い関わりがあります。
現在の成田市長沼には、地名にもなっている細長い長沼という沼が、かつて存在していました。田や畑が狭く、農作物の収穫があがらない長沼の村人たちは、沼から捕れる魚を税として納めていましたが、1872(明治5)年、長沼村と周辺の十五カ村との間で、入会権を求めた争いがおこります。長沼村は困窮し、この問題で県庁と20年以上も渡り合うことになります。その後、無事に村への下げ戻しが実現しますが、その裏には、福沢諭吉の助力があったのです。村の代表であった小川武平が、たまたま千葉の書店で福沢諭吉の『学問のすすめ』にふれ、ことの収拾と指導を仰ぐことができたおかげでした。
諭吉は、村にお金を寄付し、小学校の建設にも協力しています。

『福沢諭吉 学問をすすめた人』

関口研日麿/著 松井行正/絵 文研出版
福沢諭吉は、1834(天保5)年大阪の中津藩の蔵屋敷で生まれました。幼いころに父親が亡くなり、一家は、中津(大分県)に帰ることになります。その後、兄のすすめで長崎で蘭学を学びます。さらに、大阪で緒方洪庵にも教えを受けますが、22歳の時に兄が亡くなったため、福沢家を継ぐことになりました。のちに、藩の命令で江戸で蘭学塾(現在の慶應義塾大学)を開くのですが、英語を学ぶ決心をし、1860(万延元)年には軍艦・咸臨丸でアメリカに渡ることになります。また、幕府の使節団の一員として、ヨーロッパの国々も訪れています。1872(明治5)年には『学問のすすめ』を発行。1901(明治34)年に68歳で生涯を閉じています。

『福沢諭吉 明治時代の文明開化をリードした諭吉の足跡をたどる』

遠藤喜代子/文 桑原三郎/監修 斉藤かつみ/イラスト ポプラ社
この本には、新紙幣の千円札に描かれる北里柴三郎と福沢諭吉との関係についても触れられています。諭吉は、生涯にわたり北里を支援し、北里もその恩を忘れませんでした。後年、慶應義塾大学が医学科を創設することになった時には、すすんで医学科長になっています。

『福沢諭吉』

内田英二/著 ポプラ社
長沼村のことは「いのちの沼」として、書かれています。

『福沢諭吉と明治維新』

新冬二/文 フレーベル館

『YUKICHI 福沢諭吉の青春物語』

誉田龍一/著 中川学/絵 くもん出版

樋口一葉

近代日本の最初の女性作家である樋口一葉。一葉は20歳で職業女性作家として文壇にデビューし、わずか4年あまりで二十数編の作品を発表しています。発表当時から文壇で高い評価を受けていましたが、24歳で病気のために亡くなります。一葉の代表作『たけくらべ』は、森鴎外にも絶賛されました。

『樋口一葉』

関礼子/著 岩波書店

『樋口一葉ものがたり』

日野多香子/作 山本典子/絵 教育出版センター

野口英世

野口英世は1歳半のときに、左手に大やけどをして、物をつかむことができなくなってしまいます。小学生の時に、先生や級友たちの援助を受けて左手の手術をし、ある程度指が動くようになった野口は、医学の道を志すようになります。1898(明治31)年、野口は、北里柴三郎の伝染病研究所に入りました。その後、横浜の検疫医官捕となり、日本で初めてのペスト患者を発見することになります。1900(明治33)年、野口はアメリカに渡りますが、アメリカでの恩師のおかげで、デンマークにも留学し、免疫血清学の分野の基礎を学ぶことができました。アメリカに帰った野口は、研究生活にもどり、1918年(大正7)年黄熱病との戦いを始めます。世界中を巡って病原菌と戦い続けた野口は、1928(昭和3)年アフリカのガーナで永遠の眠りにつきました。

『目でみる野口英世記念館』(全2巻)

目でみる人物記念館刊行会/編 日本図書センター

『野口英世 意志の人』

岩佐氏寿/著 清沢治/絵 文研出版

『野口英世』

浜野卓也/文 ポプラ社

新紙幣に描かれる偉人

2024(令和6)年度から使用される一万円札には渋沢栄一が、五千円札には津田梅子、そして千円札には北里柴三郎の肖像画が、デザインされます。

渋沢栄一

大蔵省(現在の財務省)の官僚だった渋沢栄一は、34歳の時に官僚の道を捨て、民間銀行を設立します。民間にお金を流通させることで、鉄道など明治の日本にとって基礎となる事業を整備し、日本の基幹産業の創立に関わり多くの企業を育てました。それゆえ渋沢栄一は、「日本の資本主義の父」と呼ばれています。

『お札に描かれる偉人たち 渋沢栄一・津田梅子・北里柴三郎』

楠木誠一郎/著 講談社
新紙幣に描かれる、実業家の渋沢栄一、教育者の津田梅子、細菌学者の北里柴三郎の3人の一生が描かれています。

津田梅子

1864(元治元)年、津田梅子は父・津田仙と、母・初の次女として江戸で生まれました。津田仙は、佐倉藩士でした。
1871(明治4)年末、梅子は7歳の時に、日本初の女子留学生の一人として、岩倉使節団とともに渡米します。その後11年をアメリカで過ごし、英語以外の多くの分野の学問も学び、18歳で帰国します。今から150年も前のことです。
その後も何度か海外に渡り研究生活を送りますが、1900(明治33)年に自分の理想の教育を実現するために、女子英学塾(現在の津田塾大学)を開校します。女性の教育に一生をささげ、社会の意識を変えていった梅子は、1929(昭和4)年に64歳で亡くなっています。

『津田梅子 女の人にも学校を』

千葉県学校教育教材研究委員会/編 千葉県書籍教材株式会社

『教育者という生き方』

三井綾子/著 ぺりかん社

北里柴三郎

北里柴三郎は、ドイツに留学し、細菌学の父と呼ばれるドイツのロベルト・コッホに師事します。6年ほどの留学時代に血清療法を確立させ、破傷風などの治療法を見つけます。帰国後の北里は、伝染病研究所の初代所長になりますが、その研究所の設立にあたっては、福沢諭吉が私財を投じて援助しました。感染症の予防や治療など多くの功績を残した北里は、「日本の細菌学の父」と呼ばれています。

『医師という生き方』

茨木保/著 ぺりかん社

『北里柴三郎』

木村定司/著 ポプラ社

『微生物の図鑑 ミクロの世界の住人たち』

赤木かん子/著 正道/著 荒井和人/絵 新樹社

お金について

『大人になるまえに知っておきたいお金のこと』

ハイジ・フィードラー/作 ブレンダン・カーネイ/絵 こばやしれいこ/訳 ひさかたチャイルド
お金を稼ぐこと、貯めること、借りること、お金は、どんな仕組みになっているのでしょう。クレジットカードやクラウドファンディングなどの用語についても解説されていて、お金がどのように役に立っているのかが分かります。

『なるほど!お金のはなし』

マーティン・ジェンキンス/文 きたむらさとし/絵 吉井一美/訳 BL出版

『国際理解に役立つ世界のお金図鑑 1』

佐藤英人/協力 平田美咲/編 汐文社