↑2008年展示情報へ戻る
↑展示情報へ戻る
↑メインメニューへ戻る
最終更新日2010/07/07

展示全体図 歌舞伎の市川家は,初代団十郎の父親が幡谷(はたや)の出身であったことから,成田との縁があり,成田山との縁もさらに深いものがあります。団十郎や海老蔵の襲名披露や,成田山の諸行事には,参道でのお練りや演舞などが奉納されています。最近では,本年(2008年)4月の成田山開基1070年祭においても,お練りと大本堂前で連獅子が奉納されました。
 そこで,市川家と成田や成田山関係の資料を紹介します。
 また,市内に関する最新の市史資料も併せて展示します。

2008(平成20)年度補修資料の紹介:2008/12/19-展示>>

2008(平成20)年度補修資料の紹介:2008/10/18-2008/12/18展示>>

団十郎と成田

 市川団十郎と成田の関わりは,下総国幡谷村(現成田市)に曽祖父堀越十郎が移り住んだことからと考えられている。十郎は,もと甲斐国武田家の家臣で,のちに相模国小田原城の北条氏康の家臣となった。その後小田原落城(1590(天正18)年)後に幡谷に移り農民となった。その後,十郎の子の重右衛門が継いだが,その長男重蔵は農業を嫌い江戸に出,そこで生まれたのが初代団十郎であるといわれる。

初代の曽祖父十郎が記載されている古文書(幡谷区有文書)

古文書古文書(右から2件目「拾郎作」とある)

古文書古文書(右から2件目「十郎作」とある)

 該当の古文書は,1594(文禄3)年の「下総国香取郡幡谷郷御縄打水帳」と表題のある土地台帳である。(全7冊)
 初代の曽祖父十郎の記載は,2筆。1筆は新田で本人が所有している。もう1筆は,分付百姓で別の所有者の土地を耕作していることがわかる。十郎は,1590(天正18)年以降に移住してきたため,所有地・耕作地が少なかったと考えられている。七代目はこの土地の購入を望んだが果たせず,八代目が1845(弘化2)年に購入したという。

(参照:「市川団十郎と成田山新勝寺」小倉博『法談』50号 成田山法談会発行)

市川団十郎先祖居住の地碑

市川団十郎先祖居住の地碑 幡谷・東光寺境内
1964(昭和39)年 建立
 十一代目団十郎の襲名の2年後の1964(昭和39)年に碑が建てられた。地元の方によると,当時の国鉄久住駅の駅長が熱心に呼びかけたこともきっかけとなり,市川宗家が,成田山や東光寺と協議して建立された。その地鎮祭が1964(昭和39)年6月28日に行なわれ,十一代目は家族と一緒にみえ,ご先祖の住まいしていた場所も揃って回られたという。除幕式の様子は,1964(昭和39)年7月26日付け千葉日報紙が報じている。除幕式は,初代の父堀越重蔵の命日にあたる24日に行われ,参列者が十一代目団十郎と家族や一門の方々,市長を始め地元の人々総勢百数十人と伝えている。

団十郎と成田山

 初代団十郎は12歳で歌舞伎の道に入って以来,見る間に名声を高めていったが,子宝に恵まれなかった。悩みぬいた初代は,父の故郷に近く,以前より信仰していた成田山新勝寺の本尊不動明王に祈願し,1688(元禄元)年,長子九蔵(二代目団十郎)を授かることができた。『新修成田山史』によると,1695(元禄8)年,初代は仏恩に報謝するため不動明王に扮し,その2年後には九蔵に通力坊の役を勤めさせ,父子共演した。この時以後成田屋の屋号を称したとある。その後も代々,不動明王を演じるなど,成田山との縁を深めた。

七代目団十郎:1791(寛政3)年-1859(安政6)年

七代目団十郎の石像(成田山額堂)七代目団十郎の石像
(成田山額堂)

 七代目は,五代目の孫。10歳で団十郎を襲名し,1811(文化8)年の頃には市川宗家を担う役者となり,翌年には不動明王を演じている。文政年間(1818-1830年)には,成田山境内で奉納芝居を2回,額堂の寄進,朱塗りの三つ組み大盃の寄進などを行なった。1832(天保3)年,八代目に名を襲名させて,自分は海老蔵を名乗った。ところが,1842(天保13)年,天保改革の奢侈禁令に触れ,江戸十里四方追放となり,一時成田山内の延命院に蟄居した。その間,成田の人々に芝居や俳句などを教え,近在を巡り歌や句を残した。その中に,幡谷村を訪れての句もある。

「大本山成田山公式ホームページ-成田山百景 No047 七代目市川團十郎(額堂)」(リンク切れ2010/07/07)

延命院旧跡延命院旧跡

(七代目団十郎が江戸所払いの際しばらく居住した成田山境内の末寺の跡地。写真は表参道から撮影したもの)

Webサイト